2010年02月03日 (水) 18:42 | 編集
あいばです!
うちの近所の回転すし屋が100円均一をしているので、早速行って参りました。
何せ100円均一ですから長蛇の列を覚悟していましたが、夕方の夜ご飯には早い時間だったためか店内は閑散としていました。とはいえお店としては詰めて座って欲しいらしく、西洋の方の隣に案内されました。
この西洋の方は日本語が大変堪能で、声だけ聴くと少しシャイな日本人に思えます。寿司にはうるさいようで「カリフォルニア巻き」とか「サーモンのカルパッチョ」のような邪道系のネタが流れてくるといちいち首をかしげます。「これは寿司じゃない…しかもカリフォルニアでもない……」という心の叫びがひしひしと伝わってきました。気持ちは分かりますが、ネタの鮮度を考えれば回転すしではこういった邪道系を選んだほうが失敗は少ないと思います。いわし、あじ、赤身などの正統派のネタを中心に12皿食べてお帰りになられましたが、きっとカウンターで注文する寿司屋を経験すれば、次は「サーモンカルパッチョ」に手が伸びると信じています。
そうこうしているうちに僕のそばにいたホールの従業員がコンベアの中で握っている次長さん(たぶん副店長さん)に「足りないネタあったら奥から持ってきますよ」と申し出ました。
次長「そうねぇ……(ショーケースを見て、ポーカーフェイスで)たこ、かんぱち、あじ、米田君のスマイル」
米田君(そばにいた従業員)「すいません、スマイル今仕込んでます」
次長「(あくまでポーカーフェイスで)そう。早めに頼むよ」
この次長さんは何事もポーカーフェイスでやってのけるので前から注目していたのですが、今日はずば抜けて面白かったです。しかし次長も面白いですが、米田君も即座に「今仕込んでます」と返すのはなかなか粋だと思います。さすが(たぶん)早大生! いい後輩をもって幸せです。
寿司ネタは二流でも、一流の話のネタを提供してくれる―。それが回転すし屋ではないでしょうか。
相馬杜宇
うちの近所の回転すし屋が100円均一をしているので、早速行って参りました。
何せ100円均一ですから長蛇の列を覚悟していましたが、夕方の夜ご飯には早い時間だったためか店内は閑散としていました。とはいえお店としては詰めて座って欲しいらしく、西洋の方の隣に案内されました。
この西洋の方は日本語が大変堪能で、声だけ聴くと少しシャイな日本人に思えます。寿司にはうるさいようで「カリフォルニア巻き」とか「サーモンのカルパッチョ」のような邪道系のネタが流れてくるといちいち首をかしげます。「これは寿司じゃない…しかもカリフォルニアでもない……」という心の叫びがひしひしと伝わってきました。気持ちは分かりますが、ネタの鮮度を考えれば回転すしではこういった邪道系を選んだほうが失敗は少ないと思います。いわし、あじ、赤身などの正統派のネタを中心に12皿食べてお帰りになられましたが、きっとカウンターで注文する寿司屋を経験すれば、次は「サーモンカルパッチョ」に手が伸びると信じています。
そうこうしているうちに僕のそばにいたホールの従業員がコンベアの中で握っている次長さん(たぶん副店長さん)に「足りないネタあったら奥から持ってきますよ」と申し出ました。
次長「そうねぇ……(ショーケースを見て、ポーカーフェイスで)たこ、かんぱち、あじ、米田君のスマイル」
米田君(そばにいた従業員)「すいません、スマイル今仕込んでます」
次長「(あくまでポーカーフェイスで)そう。早めに頼むよ」
この次長さんは何事もポーカーフェイスでやってのけるので前から注目していたのですが、今日はずば抜けて面白かったです。しかし次長も面白いですが、米田君も即座に「今仕込んでます」と返すのはなかなか粋だと思います。さすが(たぶん)早大生! いい後輩をもって幸せです。
寿司ネタは二流でも、一流の話のネタを提供してくれる―。それが回転すし屋ではないでしょうか。
相馬杜宇
2010年01月22日 (金) 06:44 | 編集
2月中頃に上記の舞台へ出演するため、お稽古の毎日です。
(だるまちっくシアター 2010年2月13日(土)〜21日(日)、アトリエだるま座にて)
作品は劇団員の錦織伊代が執筆したキャバクラの話です。男性が好む女性(ドール)を演じているキャバクラ嬢たちが、様々な事件を通じてそのお人形の「仮面」を剥がし、真実と本音が噴出させていく、という作品です。女性はみんなキャバ嬢の役なので、濃いめのメイクに、つけまつげ。そのメイクが本音を隠す「仮面」の役割を担っています。
ところで、作家の塩野七生は「隠すために化粧するなんてつまらない」という意味のことを書いていたかと思いますが、彼女いわく「内在するなにものかを引き出すために」化粧はあるのだそうです。「ドール」では「仮面」(つまり「化粧」)という言葉がプラスにもマイナスにも使われているのですが、塩野氏の語る化粧の意味もまた面白いと思いました。
たしかに、お化粧や着る服、言葉使い、立ち居振る舞いで、人の評価ではなくまず自分が変わる。というか引き出され、交換される感じがします。場所によって、出会う人によっても、性格が変化するようにも思います。文章も明朝体で打つときと、丸ゴシック体で打つ時とは言葉づかいと表現が違います。それが嫌ではなく、嬉しくもなく、自然とそうなる。ということは、私は未だに仮面を被るほどの自我が確立されていないのでしょうか?
あ、でも多分、よそ様がご覧になれば、まぎれもなくあんたはあんただよ、ということになるのでしょうが……。
有吉朝子
(だるまちっくシアター 2010年2月13日(土)〜21日(日)、アトリエだるま座にて)
作品は劇団員の錦織伊代が執筆したキャバクラの話です。男性が好む女性(ドール)を演じているキャバクラ嬢たちが、様々な事件を通じてそのお人形の「仮面」を剥がし、真実と本音が噴出させていく、という作品です。女性はみんなキャバ嬢の役なので、濃いめのメイクに、つけまつげ。そのメイクが本音を隠す「仮面」の役割を担っています。
ところで、作家の塩野七生は「隠すために化粧するなんてつまらない」という意味のことを書いていたかと思いますが、彼女いわく「内在するなにものかを引き出すために」化粧はあるのだそうです。「ドール」では「仮面」(つまり「化粧」)という言葉がプラスにもマイナスにも使われているのですが、塩野氏の語る化粧の意味もまた面白いと思いました。
たしかに、お化粧や着る服、言葉使い、立ち居振る舞いで、人の評価ではなくまず自分が変わる。というか引き出され、交換される感じがします。場所によって、出会う人によっても、性格が変化するようにも思います。文章も明朝体で打つときと、丸ゴシック体で打つ時とは言葉づかいと表現が違います。それが嫌ではなく、嬉しくもなく、自然とそうなる。ということは、私は未だに仮面を被るほどの自我が確立されていないのでしょうか?
あ、でも多分、よそ様がご覧になれば、まぎれもなくあんたはあんただよ、ということになるのでしょうが……。
有吉朝子
2010年01月21日 (木) 17:07 | 編集
女子少年院についての報道番組を観ました。そこでは更正の決意を込めた演劇を創っていて、台本から舞台効果、出演まで全て院生が担っていました。
その芝居の冒頭の台詞が「春が来て、何もすることがない」でした。シンプルですが、奥行きのある良い台詞だと思います。出会いと別れ、そして新たな出発の季節である春に「何もすることがない」という辛さ、切なさ、寂しさがひしひしと伝わってきます。
ある詩人が中学生が書いた詩を読んで、詩になっていたのは不良の生徒だけだったと言ったという話を思い出しました。
やはり溢れ出た言葉、言わずにはいられなかった話には心をつき動かす力があると思います。
あいばもりたか
その芝居の冒頭の台詞が「春が来て、何もすることがない」でした。シンプルですが、奥行きのある良い台詞だと思います。出会いと別れ、そして新たな出発の季節である春に「何もすることがない」という辛さ、切なさ、寂しさがひしひしと伝わってきます。
ある詩人が中学生が書いた詩を読んで、詩になっていたのは不良の生徒だけだったと言ったという話を思い出しました。
やはり溢れ出た言葉、言わずにはいられなかった話には心をつき動かす力があると思います。
あいばもりたか
2010年01月16日 (土) 03:32 | 編集
相馬です。
先日小劇場の芝居を観に行った際、終演後のロビーで以下のようなやりとりを目撃した。
出演者(純朴そうな青年。髪を切るお金がないらしく不必要に長髪)「どうもありがとうございました」
お客(ノリで芝居を始め、酔った勢いで仲間と劇団を立ち上げたばかりに足を洗うきっかけを逸した(ような感じの)加齢臭漂う中年)「お疲れ。ちょっとやつれたんじゃない」
出演者「いやぁ、色々大変な現場だったんで」
お客「ははは。何となくそんな感じしたわ、観てて」
出演者「やっぱそうですか……今悩んでるんっすよ」
お客「と言うと?」
出演者「どういう方向に進もうかって」
お客「まあそういう時期だよね」
出演者「とりあえず新劇の養成所とか入ろうかと考えてて」
お客「(如何にも不愉快そうに)はあ?何で?」
出演者「いや、きちんと勉強したほうが良いと思って」
お客「(嘲笑うかのように)やめなよ、養成所なんか入ったって何の役にも立たないし」
こういう時、この人(もちろんお客のほう)とは一緒に芝居を創りたくないなと思う。決して新劇の養成所を全面的に肯定するつもりはない。しかし新劇の優れた俳優の言葉を伝える力、戯曲を読み込むことへの真摯な姿勢を知っているので、それを培った養成所の存在を否定する気にはなれない。
そもそも養成所で何をしているのか知っているのだろうか。僕も詳しくないが、聞いたところによれば、ダンス、所作、日本舞踊、ボイストレーニング、戯曲分析などがあるらしい。これらは全て俳優として武器になるもので、どう考えても「何の役にも立たない」ものでは無い気がする。その証拠に養成所出身で、新劇の芝居をつまらないとか年功序列はおかしいとか言う人はいるが、カリキュラムについて否定する人にはあまり出会ったことがない。むしろ「もう少し真面目に授業に出るべきだった」と言う人が大半である。
ただ、そもそも小劇場は新劇へのアンチテーゼとしてあることを考えれば、否定するのは当然と言える。しかし否定するためには「ダサい」とか「堅い」という印象批判をするのではなく、「綺麗な身体の俳優が台本通りに動くという虚構の表現が果たして観客の心を打つのか」、「杉村春子さんが演る女の一生よりタバコ屋のおばちゃんが語る人生の方がドラマチックなのではないか」(by寺山修司)といった本質的な疑問に根ざしていない限り、簡単に自己満足の沼にハマってしまうのではないか。
また、「芝居は感性だ」と断言する人にも疑問を感じる。確かに最終的に頼るのは感性だが、それまでに技術と知識の集積があってこそだと僕は信じる。
特に松尾スズキさんの作品を誤読し、戯曲は感性で書けると思っている自称劇作家には、斎藤憐さんの「劇作は愉し」を読んで欲しいと思う。
それでも自分の並外れた感性を信じられるなら、もう何も言うことはありません。
相馬杜宇
先日小劇場の芝居を観に行った際、終演後のロビーで以下のようなやりとりを目撃した。
出演者(純朴そうな青年。髪を切るお金がないらしく不必要に長髪)「どうもありがとうございました」
お客(ノリで芝居を始め、酔った勢いで仲間と劇団を立ち上げたばかりに足を洗うきっかけを逸した(ような感じの)加齢臭漂う中年)「お疲れ。ちょっとやつれたんじゃない」
出演者「いやぁ、色々大変な現場だったんで」
お客「ははは。何となくそんな感じしたわ、観てて」
出演者「やっぱそうですか……今悩んでるんっすよ」
お客「と言うと?」
出演者「どういう方向に進もうかって」
お客「まあそういう時期だよね」
出演者「とりあえず新劇の養成所とか入ろうかと考えてて」
お客「(如何にも不愉快そうに)はあ?何で?」
出演者「いや、きちんと勉強したほうが良いと思って」
お客「(嘲笑うかのように)やめなよ、養成所なんか入ったって何の役にも立たないし」
こういう時、この人(もちろんお客のほう)とは一緒に芝居を創りたくないなと思う。決して新劇の養成所を全面的に肯定するつもりはない。しかし新劇の優れた俳優の言葉を伝える力、戯曲を読み込むことへの真摯な姿勢を知っているので、それを培った養成所の存在を否定する気にはなれない。
そもそも養成所で何をしているのか知っているのだろうか。僕も詳しくないが、聞いたところによれば、ダンス、所作、日本舞踊、ボイストレーニング、戯曲分析などがあるらしい。これらは全て俳優として武器になるもので、どう考えても「何の役にも立たない」ものでは無い気がする。その証拠に養成所出身で、新劇の芝居をつまらないとか年功序列はおかしいとか言う人はいるが、カリキュラムについて否定する人にはあまり出会ったことがない。むしろ「もう少し真面目に授業に出るべきだった」と言う人が大半である。
ただ、そもそも小劇場は新劇へのアンチテーゼとしてあることを考えれば、否定するのは当然と言える。しかし否定するためには「ダサい」とか「堅い」という印象批判をするのではなく、「綺麗な身体の俳優が台本通りに動くという虚構の表現が果たして観客の心を打つのか」、「杉村春子さんが演る女の一生よりタバコ屋のおばちゃんが語る人生の方がドラマチックなのではないか」(by寺山修司)といった本質的な疑問に根ざしていない限り、簡単に自己満足の沼にハマってしまうのではないか。
また、「芝居は感性だ」と断言する人にも疑問を感じる。確かに最終的に頼るのは感性だが、それまでに技術と知識の集積があってこそだと僕は信じる。
特に松尾スズキさんの作品を誤読し、戯曲は感性で書けると思っている自称劇作家には、斎藤憐さんの「劇作は愉し」を読んで欲しいと思う。
それでも自分の並外れた感性を信じられるなら、もう何も言うことはありません。
相馬杜宇
![]() | 劇作は愉し―名作戯曲に作劇を学ぶ (2006/04) 斎藤 憐 商品詳細を見る |
2010年01月14日 (木) 17:35 | 編集
新年を迎えまして、七草を過ぎ、明日は松飾りなどを焼く「どんど」ですね。
番組のタイトルなどから「新春」の文字が抜け、正月気分ともオサラバな時期ですね。
そんな今年の正月、テレビジョン・セットで久しぶりに浄瑠璃人形芝居の文楽公演を見ました。しばしば歌舞伎でも上演される『義経千本桜』の三段目です。この段の切(←キリ。浄瑠璃において一段の中で中心となる部分や場面のこと)は、『千本桜』の中でも人気が高く上演頻度も高い《すしや》です。
鮨屋(←と言っても、握りじゃなくていわゆる熟れ寿司です)をやっている親が、平家方の家族をかくまっているんですが、ごろつき的な一人息子の「いがみの権太」がそれを聞きつけて褒美欲しさに敵方に売るんですが、実は差し出した家族は自分の妻子だったという話―――。そんな簡単なあらすじを書かれてもわからないと思いますし、もうちょっと込み入ってるんですけど、まあ超大雑把に言うとそんなお話です。
その《すしや》を久しぶりで見たら、「こんな長かったっけ?」って思うほど長〜い場面で驚きました。さっき書いた権太の件の前に、権太の妹が恋心を抱いている鮨屋の奉公人(実は、平惟盛)を誘惑するような場面があるんですが、そこだけでけっこう長い。
ご存知かと思いますが、文楽は三味線の伴奏に乗せて大夫と呼ばれる義太夫語りが一人で何役も語り分けるわけで、セリフ以外のいわゆる「地の文」も語ります。そして、当然役柄の違いによって語り口も変わってきますが、それだけじゃなく、どんな場面なのかによっていわゆる「地の文」の語り方も変わる。
だから、妹の場面と、その後の権太の場面では語り方も音色も全然違うんです。楽劇だから、そんな面白さもあるわけなんですけど、そこに改めて気付いて新鮮でした。
個人的に、ほとんどミュージカルというジャンルは無知なんですけど、正月に文楽を見てたら、作曲法も構造も違うだろうけど、同じ楽劇なんだから、ちゃんと向き合えば好きになれる気がしました。
校倉 元
番組のタイトルなどから「新春」の文字が抜け、正月気分ともオサラバな時期ですね。
そんな今年の正月、テレビジョン・セットで久しぶりに浄瑠璃人形芝居の文楽公演を見ました。しばしば歌舞伎でも上演される『義経千本桜』の三段目です。この段の切(←キリ。浄瑠璃において一段の中で中心となる部分や場面のこと)は、『千本桜』の中でも人気が高く上演頻度も高い《すしや》です。
鮨屋(←と言っても、握りじゃなくていわゆる熟れ寿司です)をやっている親が、平家方の家族をかくまっているんですが、ごろつき的な一人息子の「いがみの権太」がそれを聞きつけて褒美欲しさに敵方に売るんですが、実は差し出した家族は自分の妻子だったという話―――。そんな簡単なあらすじを書かれてもわからないと思いますし、もうちょっと込み入ってるんですけど、まあ超大雑把に言うとそんなお話です。
その《すしや》を久しぶりで見たら、「こんな長かったっけ?」って思うほど長〜い場面で驚きました。さっき書いた権太の件の前に、権太の妹が恋心を抱いている鮨屋の奉公人(実は、平惟盛)を誘惑するような場面があるんですが、そこだけでけっこう長い。
ご存知かと思いますが、文楽は三味線の伴奏に乗せて大夫と呼ばれる義太夫語りが一人で何役も語り分けるわけで、セリフ以外のいわゆる「地の文」も語ります。そして、当然役柄の違いによって語り口も変わってきますが、それだけじゃなく、どんな場面なのかによっていわゆる「地の文」の語り方も変わる。
だから、妹の場面と、その後の権太の場面では語り方も音色も全然違うんです。楽劇だから、そんな面白さもあるわけなんですけど、そこに改めて気付いて新鮮でした。
個人的に、ほとんどミュージカルというジャンルは無知なんですけど、正月に文楽を見てたら、作曲法も構造も違うだろうけど、同じ楽劇なんだから、ちゃんと向き合えば好きになれる気がしました。
校倉 元


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