2009年05月14日 (木) 00:07 | 編集
時々、ストーリー性のある夢というのをみる。
そのなかでも、話すとたいてい「それ、芝居にしたら?」と言われる夢のトップが、この夢だ。
自衛隊の戦闘機が山の上を飛んでると、いきなり飛び出してきた天使をはねてしまう。
パイロットは驚いて、「ただ今、天使をはねました」と無線で連絡するが、「バカ!」と言われてしまう。
パイロットは「このままだとひき逃げですので」と、Uターンして山に降りると(夢の中では戦闘機がヘリコプターのように低空で空中静止していた。あり得ないんですけど、夢なんですみません)、かなりでかい天使が血を流して山のてっぺんに倒れている。
パイロットはロープで天使をつり上げて、折りたたむようにコックピットの後ろに乗せ(これもきっとあり得ないですね)、 基地に戻る。
基地の病院では大変な騒ぎになっている。医師達が集められるが、誰も天使を治療したことがない。
人間の医者の他に、鳥専門の獣医や、「天使ははたして鳥類なのか?」ということで、コウモリの専門家やペンギンの専門家なども集められる。(夢だからね…)
病院は戒厳令さながらの厳戒態勢で、「絶対にマスコミにかぎつけられるな」と厳命される。特に宗教関係者に知られたら大変で、「日本の自衛隊が天使をはねたなんてことがと知られたら、国際問題になる!」と、たいへんな警戒ぶりだ。
ものすごい数の医者達が手術室に入っていき、手術は無事に成功に終わる。
白いベッドに寝ている天使はものすごくきれいだ。
天使をはねてしまったパイロットが、枕元に座ってじっと見ていると、天使の眼がゆっくり開く。その眼は、ブルーグリーンで、湖に星を浮かべたような美しい眼だ。
パイロットはその美しさに思わず息を呑む。
天使はパイロットの顔を見ると、がばっと起きあがり、いきなり言った。
「どこ見て運転してんだ、このボケ!」
ここで目が覚めた、のかどうかは定かではないが、少なくとも、この先は何も覚えていない。
しかし、確かに今書いていても、続きを考えて芝居にしてみたい気のする題材ではある。
篠原久美子
そのなかでも、話すとたいてい「それ、芝居にしたら?」と言われる夢のトップが、この夢だ。
自衛隊の戦闘機が山の上を飛んでると、いきなり飛び出してきた天使をはねてしまう。
パイロットは驚いて、「ただ今、天使をはねました」と無線で連絡するが、「バカ!」と言われてしまう。
パイロットは「このままだとひき逃げですので」と、Uターンして山に降りると(夢の中では戦闘機がヘリコプターのように低空で空中静止していた。あり得ないんですけど、夢なんですみません)、かなりでかい天使が血を流して山のてっぺんに倒れている。
パイロットはロープで天使をつり上げて、折りたたむようにコックピットの後ろに乗せ(これもきっとあり得ないですね)、 基地に戻る。
基地の病院では大変な騒ぎになっている。医師達が集められるが、誰も天使を治療したことがない。
人間の医者の他に、鳥専門の獣医や、「天使ははたして鳥類なのか?」ということで、コウモリの専門家やペンギンの専門家なども集められる。(夢だからね…)
病院は戒厳令さながらの厳戒態勢で、「絶対にマスコミにかぎつけられるな」と厳命される。特に宗教関係者に知られたら大変で、「日本の自衛隊が天使をはねたなんてことがと知られたら、国際問題になる!」と、たいへんな警戒ぶりだ。
ものすごい数の医者達が手術室に入っていき、手術は無事に成功に終わる。
白いベッドに寝ている天使はものすごくきれいだ。
天使をはねてしまったパイロットが、枕元に座ってじっと見ていると、天使の眼がゆっくり開く。その眼は、ブルーグリーンで、湖に星を浮かべたような美しい眼だ。
パイロットはその美しさに思わず息を呑む。
天使はパイロットの顔を見ると、がばっと起きあがり、いきなり言った。
「どこ見て運転してんだ、このボケ!」
ここで目が覚めた、のかどうかは定かではないが、少なくとも、この先は何も覚えていない。
しかし、確かに今書いていても、続きを考えて芝居にしてみたい気のする題材ではある。
篠原久美子
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2009年05月04日 (月) 07:01 | 編集
こんな話があります。
ロシアの森のなかで一本の巨木が倒れた。
だけど、その音を聞いた人も、倒れた瞬間を目撃した者もいない。
果たして、その巨木は存在したのか?
哲学の世界でたまーに引用される例え話ですが、答えは「存在しなかった」となります。
つまり、実際に倒れたとしても、それを認知する存在(つまりは観察者)がいなければ、存在しないに等しい、ということらしいのです。
これは時間の概念にも言える、なんて言い方をした人もおりました。
すなわち、時間とはそれを認識する主体がなければ、存在し得ない。時間とは単体では存在できないものだ、と。
さて、話がどんどんつまらない方向に傾いてきました。
面倒臭くなったヒトは、そろそろ右上の×ボタンをクリックしましょう。
このBlogだって同じです。
読む人間がダレもいなければ、それは存在しないも同然なのです。
もっとも、現実的にはBlogを開設することによって、ソースに文字列が書き込まれるワケですから、明らかに存在はします。
しかし、読む主体としての第三者がいなければ、存在しないのと同じぐらい無意味でなのです。
言うなれば、このBlogとは、いまの瞬間、読んでくれている名も知らぬ「あなた」との共同認識によって、かろうじて存在しているものなのです。
だから、あなたに言いたい。
山のあなたではなく、そこのあなたです。
読むのをやめないで!
どんなに頭の悪いオハナシを書きつづろうと、「あなたとの二人だけの知的共同作業」がそこにはあります。
☆上原英司☆
ロシアの森のなかで一本の巨木が倒れた。
だけど、その音を聞いた人も、倒れた瞬間を目撃した者もいない。
果たして、その巨木は存在したのか?
哲学の世界でたまーに引用される例え話ですが、答えは「存在しなかった」となります。
つまり、実際に倒れたとしても、それを認知する存在(つまりは観察者)がいなければ、存在しないに等しい、ということらしいのです。
これは時間の概念にも言える、なんて言い方をした人もおりました。
すなわち、時間とはそれを認識する主体がなければ、存在し得ない。時間とは単体では存在できないものだ、と。
さて、話がどんどんつまらない方向に傾いてきました。
面倒臭くなったヒトは、そろそろ右上の×ボタンをクリックしましょう。
このBlogだって同じです。
読む人間がダレもいなければ、それは存在しないも同然なのです。
もっとも、現実的にはBlogを開設することによって、ソースに文字列が書き込まれるワケですから、明らかに存在はします。
しかし、読む主体としての第三者がいなければ、存在しないのと同じぐらい無意味でなのです。
言うなれば、このBlogとは、いまの瞬間、読んでくれている名も知らぬ「あなた」との共同認識によって、かろうじて存在しているものなのです。
だから、あなたに言いたい。
山のあなたではなく、そこのあなたです。
読むのをやめないで!
どんなに頭の悪いオハナシを書きつづろうと、「あなたとの二人だけの知的共同作業」がそこにはあります。
☆上原英司☆
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