2012年08月07日 (火) 21:31 | 編集
コアラとユーカリの関係ってろくでもない恋愛みたいだ。
全然栄養素ないし、毒素強いユーカリ。
解毒にエネルギーをとられすぎちゃうコアラ。
そのうえユーカリから得られるエネルギーはあんまりない。
はたからみてるひとたちからは
「いや、他のもん食えよ!!!」
と総突っこみ。
・・・でもダメなんです。ユーカリしか食べられないんです。
友人の評価はいまいちでもシーソーキュート。
労力が見合ってない感じと、でも最早本人にはどうしようもないあたりが、しんどい恋のようです。
坂本鈴
全然栄養素ないし、毒素強いユーカリ。
解毒にエネルギーをとられすぎちゃうコアラ。
そのうえユーカリから得られるエネルギーはあんまりない。
はたからみてるひとたちからは
「いや、他のもん食えよ!!!」
と総突っこみ。
・・・でもダメなんです。ユーカリしか食べられないんです。
友人の評価はいまいちでもシーソーキュート。
労力が見合ってない感じと、でも最早本人にはどうしようもないあたりが、しんどい恋のようです。
坂本鈴
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2012年05月02日 (水) 15:17 | 編集
宮城県と岩手県の県境辺りにある美味しいタイ料理を出してくれるおしゃれなカフェで面白い本を見つけた。
なんだか出だしから、「本」よりも見つけた場所の方が面白そうな書き出しになってしまったが、そんなことはない。場所の面白さに勝るとも劣らない面白さを持ったこの本のタイトルは「みかんのむきかた」という。
お店の本だし、食事が目的だったし、一人ではなかったしということで全部は読んでいないが、かなり心惹かれた。言ってしまえば折り紙や工作などのハウツー本の類なのだが、そもそも「みかんのむきかた」を工夫するという着眼がステキだ。その無駄さに文化と芸術の芽生えを感じる。紹介のための物語のシンプルさと語り口の面白さがまた無性に面白い。
●ものがたり
みかんの大好きな「むきおくん」が、ある大晦日の晩、「じぶんはこのままでいいのか」とみかんとの向き合い方を真剣に考え、宇宙的な閃きによって見事に「うさぎの形にみかんをむく」ことに開眼する。それを見た母親が、我が子の「みかんをむく才能」に驚愕し、「むきお、もっとおむきなさい」とはげます。ところが、それを見ていた妹の「むきみちゃん」が、「あたしも!」と言ってぺろりと「天かける竜」の形にみかんをむいてしまう。むきおくんは思う。「まだまだ大晦日はこれからさ」
かくて、みかんの皮で干支をむくというきょうだい対決がはじまるのだ。
こちらが本の表紙です。

どうやら2年くらい前に発売された本のようですが、その存在を知らなかったことが悔やまれます。先が気になるので、早速、アマゾンに注文してみましたが、続編も出ているようです。
柑橘系にご縁のある今日この頃です。
篠原久美子
なんだか出だしから、「本」よりも見つけた場所の方が面白そうな書き出しになってしまったが、そんなことはない。場所の面白さに勝るとも劣らない面白さを持ったこの本のタイトルは「みかんのむきかた」という。
お店の本だし、食事が目的だったし、一人ではなかったしということで全部は読んでいないが、かなり心惹かれた。言ってしまえば折り紙や工作などのハウツー本の類なのだが、そもそも「みかんのむきかた」を工夫するという着眼がステキだ。その無駄さに文化と芸術の芽生えを感じる。紹介のための物語のシンプルさと語り口の面白さがまた無性に面白い。
●ものがたり
みかんの大好きな「むきおくん」が、ある大晦日の晩、「じぶんはこのままでいいのか」とみかんとの向き合い方を真剣に考え、宇宙的な閃きによって見事に「うさぎの形にみかんをむく」ことに開眼する。それを見た母親が、我が子の「みかんをむく才能」に驚愕し、「むきお、もっとおむきなさい」とはげます。ところが、それを見ていた妹の「むきみちゃん」が、「あたしも!」と言ってぺろりと「天かける竜」の形にみかんをむいてしまう。むきおくんは思う。「まだまだ大晦日はこれからさ」
かくて、みかんの皮で干支をむくというきょうだい対決がはじまるのだ。
こちらが本の表紙です。

どうやら2年くらい前に発売された本のようですが、その存在を知らなかったことが悔やまれます。先が気になるので、早速、アマゾンに注文してみましたが、続編も出ているようです。
柑橘系にご縁のある今日この頃です。
篠原久美子
2011年01月08日 (土) 18:34 | 編集
今日は長い時間正座をする機会があり、足の感覚がなくなっても我慢して座り続けていたところ、足を崩したときの血流の戻り方がハンパなかった。
その感じを擬音で表現します。
ズバッ、ズシュシュシュッ、ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ、プシューーーーーーーーッ、ビリビリビリビリ、シュ、シュ、シュ、シュ、ジワワワワワワ、ズドーーーン、ジョワワワワーーーーン、ジョワワン、ジョワワン、ジョワワワワーーーーーーーーン、ピリッ、ピリピリピリピリ、サクッ、シュワシュワシュワシュワ、ガッガッガッ、ゴーーーーーーーーーーーーーッッッ、ジワジワジワジワジワジワ、グングングングングングン、スワッ、スワッ、ピリピリ、パーーーーーーーーーーーーッ、ハラハラヘレヘレホロホロ、クワッ、クワッ、クワッ、ピヨピヨ、パフン、パフン、パオーーーーーン、シワシワシワシワシワシワシワシワ、ワシワシワシワシ、スワスワシーーーーーーーーーーーーーーー、シュパーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ、ポン!(正常化完了)
今年もよろしくお願いします。
黒川陽子
その感じを擬音で表現します。
ズバッ、ズシュシュシュッ、ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ、プシューーーーーーーーッ、ビリビリビリビリ、シュ、シュ、シュ、シュ、ジワワワワワワ、ズドーーーン、ジョワワワワーーーーン、ジョワワン、ジョワワン、ジョワワワワーーーーーーーーン、ピリッ、ピリピリピリピリ、サクッ、シュワシュワシュワシュワ、ガッガッガッ、ゴーーーーーーーーーーーーーッッッ、ジワジワジワジワジワジワ、グングングングングングン、スワッ、スワッ、ピリピリ、パーーーーーーーーーーーーッ、ハラハラヘレヘレホロホロ、クワッ、クワッ、クワッ、ピヨピヨ、パフン、パフン、パオーーーーーン、シワシワシワシワシワシワシワシワ、ワシワシワシワシ、スワスワシーーーーーーーーーーーーーーー、シュパーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ、ポン!(正常化完了)
今年もよろしくお願いします。
黒川陽子
2009年06月28日 (日) 08:27 | 編集
ミュージカル講座で、「ロミオとジュリエット」と「ウエストサイドストーリー」をハコ書きに戻して比較検討する、という課題が出たのでやってみた。
まずは細かく、シーンごとに、登場人物の登場退場を中心にハコ書きに戻してみた。これをやって真っ先に気づくことは、シェークスピア作品の、「なーんておおらかなの!」と言って微笑んでしまうしかないほどの「構成のいい加減さ」だ。
特に俳優の登場・退場は無駄が多すぎて、いちいち例を挙げればきりがないが、際だっているのは2幕5場のピーターの登退場だろう。
乳母とピーター登場
ジュリエット ばあや、ねえ、どうだった? (ロミオに)お会いした? その人(ピーター)は下がらせて。
乳母 ピーター、門のところで待っておいで。
ピーター、退場。
「俺は何のために登場したのだ?」という、ピーター役の俳優のため息が聞こえてきそうな脚本である。もはや「劇団に、絶対に出さなければならない事情を持った美形の大根役者でもいたのだろうか?」と推察するしかない。
また、5幕3場の大詰め、ロミオとジュリエットが死んだ後に両家の両親が駆けつける場面で、モンタギューがいきなり「妻は昨夜死にました」と言うのはあまりにも唐突すぎてひっくり返りそうになった。百歩譲ってジュリエットの母親が娘の死を知って嘆き死ぬならまだしも、息子の追放が辛くて嘆き死ぬ母親というのはどうにも不自然で、これもまた、「モンタギュー夫人とバルサザー役か誰
かが一人二役だったために同時に出せなかったのではないか?」というような劇団事情を思わず勘ぐってしまったほどだ。
ところが!
前述したことに矛盾するようだが、ハコ書きをさらに大きな「シークエンスの流れ」に戻してみると、これがもう、シェークスピアの「構成のうまさ」に舌を巻いてしまうのだ。
近代に於いて理論化された、イプセンの「三一法」を知らないはずのソフォクレスが見事な三一法で「オイディプス王」を書き上げているように、「リラックス→クライシス」を発展的に繰り返しながら「最大限のクライシス(クライマックス)」に向かうという「ハリウッド脚本の定石」に、シェークスピアの「ドラマのうねり」が、驚くほど合致しているのだ!
今更ながら、天才達の経験が到達する、ほとんど直感的な論理性に気づかされる驚きだった。
そして、「ウエストサイドストーリー」は、この、シェークスピアの「直感的論理性」によって構成されたシークエンスの流れを、明らかに意識的に踏襲し、より論理的に構成し直し、更に洗練し、無駄のない、ほとんど完璧なプロットで仕上げられている。
「すごい! 本当にスゴイ!」と、いつもいつもプロットで苦労し続けている私は、このハコ書き戻しをしながら驚き続けたのだった。
こうしたことに気づいてしまって、「とても敵わない...!」と落ち込む気持ちはないではないけれど、逆に、「天才的な直感」から生まれたものが、それが優れたものであればあるほど実は「論理的な構造を持っている」ことに、分析さえすれば気付けるということは、「論理から遡って直感に至る道がある」という大きな希望を見出すこともできるということだ。
今回はなんだか思わぬ大きな学びになってしまった。
馬には乗ってみろと言うが、課題はやってみるものだ。
篠原久美子
まずは細かく、シーンごとに、登場人物の登場退場を中心にハコ書きに戻してみた。これをやって真っ先に気づくことは、シェークスピア作品の、「なーんておおらかなの!」と言って微笑んでしまうしかないほどの「構成のいい加減さ」だ。
特に俳優の登場・退場は無駄が多すぎて、いちいち例を挙げればきりがないが、際だっているのは2幕5場のピーターの登退場だろう。
乳母とピーター登場
ジュリエット ばあや、ねえ、どうだった? (ロミオに)お会いした? その人(ピーター)は下がらせて。
乳母 ピーター、門のところで待っておいで。
ピーター、退場。
「俺は何のために登場したのだ?」という、ピーター役の俳優のため息が聞こえてきそうな脚本である。もはや「劇団に、絶対に出さなければならない事情を持った美形の大根役者でもいたのだろうか?」と推察するしかない。
また、5幕3場の大詰め、ロミオとジュリエットが死んだ後に両家の両親が駆けつける場面で、モンタギューがいきなり「妻は昨夜死にました」と言うのはあまりにも唐突すぎてひっくり返りそうになった。百歩譲ってジュリエットの母親が娘の死を知って嘆き死ぬならまだしも、息子の追放が辛くて嘆き死ぬ母親というのはどうにも不自然で、これもまた、「モンタギュー夫人とバルサザー役か誰
かが一人二役だったために同時に出せなかったのではないか?」というような劇団事情を思わず勘ぐってしまったほどだ。
ところが!
前述したことに矛盾するようだが、ハコ書きをさらに大きな「シークエンスの流れ」に戻してみると、これがもう、シェークスピアの「構成のうまさ」に舌を巻いてしまうのだ。
近代に於いて理論化された、イプセンの「三一法」を知らないはずのソフォクレスが見事な三一法で「オイディプス王」を書き上げているように、「リラックス→クライシス」を発展的に繰り返しながら「最大限のクライシス(クライマックス)」に向かうという「ハリウッド脚本の定石」に、シェークスピアの「ドラマのうねり」が、驚くほど合致しているのだ!
今更ながら、天才達の経験が到達する、ほとんど直感的な論理性に気づかされる驚きだった。
そして、「ウエストサイドストーリー」は、この、シェークスピアの「直感的論理性」によって構成されたシークエンスの流れを、明らかに意識的に踏襲し、より論理的に構成し直し、更に洗練し、無駄のない、ほとんど完璧なプロットで仕上げられている。
「すごい! 本当にスゴイ!」と、いつもいつもプロットで苦労し続けている私は、このハコ書き戻しをしながら驚き続けたのだった。
こうしたことに気づいてしまって、「とても敵わない...!」と落ち込む気持ちはないではないけれど、逆に、「天才的な直感」から生まれたものが、それが優れたものであればあるほど実は「論理的な構造を持っている」ことに、分析さえすれば気付けるということは、「論理から遡って直感に至る道がある」という大きな希望を見出すこともできるということだ。
今回はなんだか思わぬ大きな学びになってしまった。
馬には乗ってみろと言うが、課題はやってみるものだ。
篠原久美子
2009年06月11日 (木) 10:23 | 編集
この難を
能登興すにて焼き去るは
この句は江戸初期、加賀百万石の太守前田光高(利家の孫)の第三子で、能登の名族与田氏を継いだ与田宗那弥(そうなみ)が、詠んだものである。
宗那弥は、父親たる前田氏に反旗を翻し、能登にて独立国を興そうとした男だった。
だが、このお家騒動は事前に露見し、加賀を追われて能登へ逃げる途上、冒頭の句を詠んだという。
しかし、宗那弥は能登へとたどり着く前に、前田氏による待ち伏せにあい、命を落とした。歴史に語られることのなかったこの事実は、冒頭に示した句の発見によりいま明るみに出たのである。
わたしは、この句を石川県のある旧家の土間にて発見した。
本来ならば、このようなウェブログ上に発表すべきではなく、由緒ある国文誌上にて綿密な研究のもと論証されるべきである。
しかしながら、今回は発見者であるわたしの判断で、掲載することにした。
さて、この句をひらがなに直して反対から読んでいただきたい。
わたしはそこにもうひとつの真実を発見したのである。
この難を
能登興すにて焼き去るは
与田宗那弥
このなんを
のとおこすにてやきさるは
よだそうなみ
☆上原英司☆
能登興すにて焼き去るは
この句は江戸初期、加賀百万石の太守前田光高(利家の孫)の第三子で、能登の名族与田氏を継いだ与田宗那弥(そうなみ)が、詠んだものである。
宗那弥は、父親たる前田氏に反旗を翻し、能登にて独立国を興そうとした男だった。
だが、このお家騒動は事前に露見し、加賀を追われて能登へ逃げる途上、冒頭の句を詠んだという。
しかし、宗那弥は能登へとたどり着く前に、前田氏による待ち伏せにあい、命を落とした。歴史に語られることのなかったこの事実は、冒頭に示した句の発見によりいま明るみに出たのである。
わたしは、この句を石川県のある旧家の土間にて発見した。
本来ならば、このようなウェブログ上に発表すべきではなく、由緒ある国文誌上にて綿密な研究のもと論証されるべきである。
しかしながら、今回は発見者であるわたしの判断で、掲載することにした。
さて、この句をひらがなに直して反対から読んでいただきたい。
わたしはそこにもうひとつの真実を発見したのである。
この難を
能登興すにて焼き去るは
与田宗那弥
このなんを
のとおこすにてやきさるは
よだそうなみ
☆上原英司☆
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