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劇団劇作家ブログ
現在、劇団劇作家に参加している劇作家がお送りする日常のあれこれ
死にたがる癖と劇作家
2008年04月10日 (木) 16:41 | 編集
 もうとっくに少女ではないのだが、私にはどうも、「死にたがるクセがある」。(引用:「Hip Hop Typhoon -少女には死にたがるクセがある」小里清)
 最初に自殺を考えたのは十歳の時だから、それから三十数年、いまだに「死にたい、なにをやってもダメだ、生きることに疲れた」と癖のようにすぐ考えるのだが、残念ながらいまだに死んでいない。ということは、まあ、おそらくは自分でそう思っているよりも私はタフなのだろう、そうは思えないのだが、きっと。
 とはいえ最近、やけに頻繁にこのクセが出てきて、さすがに正直、自分でしんどいし、どう考えても不健康だというくらいのことは分かる。そこでなんとか「死にたい」の反対語を考えてみることにした。
 そうして静かに暗い水の面でも見つめるようにじっと考えていると、ふと、なにか深い水底から浮かび上がってくるようにひとつの言葉が姿を現した。その言葉はひどく私をびっくりさせた。
 私の「死にたい」の反対語は、「劇作家になりたい」だった…。

 ある小説の序文に、こんな言葉がある。 

「職業」としての小説家と「天職」としての小説家は別物である。
(中略)例えばこれから十年後、私がたくさんの小説を書き、それで立派に生計がたつようになったとする。そんなときがこようとは思わないが、そうなったとする。そうしたら満足がゆくかというと、それでも私は自分が小説家であるかどうかという問いからは自由にならないように思う。それは小説家といえども芸術家であり、芸術家というものは、芸術家として食べてゆけるかという以前に自分が芸術家として生まれてきたか─自分が運命の星の元に芸術家として世に送り出されてきたかのどうかを、問題にせざるを得ないような存在だからである。そうしてその根底にあるのは、なにか目に見えない力、人智を越えた力、宇宙を制限する神秘的な力によって、自分が芸術家として生まれてくる必然があったと信じたいという、誇大妄想狂的な思いである。(中略)甲が小説家であり、乙が小説家ではないということは限りなく恣意的なことでしかない。だからこそ、天からの声がひそかに耳元に鳴り響き、お前は小説家になるために生まれてきたのだ、それが天の意志であり天の摂理である、と告げてほしいと人一倍思うのである。(引用:「本格小説」水村美苗)

 先日、偶然会った方から、共通の知り合いである劇作家がやはり暗い顔で「死にたい…」と言っていたと聞いた。また別の書けていない劇作家が「死んでお詫びをしなきゃ…」と言っていたのを聞いたこともある。なんだかそういう話ばかり聞いていると、少女ではなく「劇作家には死にたがるクセがある」のかもしれない。(あるいは劇作家はみな少女なのか…)。特に劇作家の場合は、マラソン・ランナーではなく駅伝の第一走者なので、脱水症状を起こしてフラフラになっても、たすきを演出という第二走者に渡さなければならないというプレッシャーも加わっているから「死ねばもう書かなくて済む」という悲鳴も混じっている。
 けれどそれでも、劇作家の「死にたい」の底にあるものは、「せめてもう少しましなものが書きたい」なのだろう。「劇作をしてお金をもらっているからといって劇作家というわけではない。」そう囁く内側の声が、何を書いてもこれでは駄目だと自分を責めるクセに繋がるのは、「天からの声がひそかに耳元に鳴り響き、お前は劇作家になるために生まれてきたのだ、と告げられたい」という、同じカードの裏表なのかもしれない。
 
 うーん、やっぱり誇大妄想狂的ではある。
 それでも、今度「死にたい」という考えが頭に浮かんだときには、敢えて口に出して言ってみるのもいいかもしれない。
 「劇作家になりたい。自分が劇作家として生まれてくる必然があったと信じたい」と。

 篠原久美子
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コメント
この記事へのコメント
反対語もくそもないです。
 あなたは劇作を辞めたいのではありませんか。ものづくりが、実は面倒くさくなってきたのではありませんか。
死にたいの反対語なんかありません。

 あなたは書物や人の発言に意味を探すのが好きなようですが、
たとえば作家筒井康隆の「大いなる助走」はお読みになりましたか。
 あなたが悩んでいることの答えは、もう何十年も前に、これでもかという位出尽くしていることが分かります。
 2時間で読み終わりますから読んで御覧なさい。その上でもう一度、ご自身の胸に手をあててみてください。


 本当にものづくりに命を燃やすなら、あなた一人(?)の生活の糧、金・・・幾らでもどうにでもなるし、しなきゃだめです。
 親類・縁者・友人・異性にパトロン作るなり、キャッチセールスマルチ商法、訪問販売。DOMOとかFROM A開けば、毎週情報満載です。キャバクラ・ホストでもなんでもいいじゃありませんか。
 
 そもそも、いい年してアートで食おうということ自体、邪でずるい行為なのです。世間でまともに働いてる人から見たら詐欺師みたいなモンです(誰の発言かといえば、タモリの発言だそうですよ)。狭き門、という観点から言っても、アート・文芸で満足に食うより、今から公認会計士や司法試験に受かることのほうが格率高いんじゃないのかな。今から死ぬ気で勉強して、どんな難関資格にでも受かる覚悟あります?それより確率低く、見入りも少ないことを考えてみてください。

 表現とは「地獄に落ちていく行為」なんですよ。本人だけではなく、家族も周囲も巻き込んでいくんです。

”法に反しない職”に限って列挙しても、短期間(2、3ヶ月)で作家志望者一人一年分の生活費を稼ぐことは難しいことではありません。
 残りの10ヶ月、9ヶ月で制作に専念すればよいでしょう、ということです。
生活費欲しさに多少きわどい体験をしたとして、それがまた、次の作品への精神的な糧・持ちネタともなるわけです。
 そこまでやれとは誰も言わないでしょうけど、いざ食えなくなったらそこまでしてでも書き続ける覚悟、あなたにありますか?
 別に普通の仕事でもいいです、何か書きたいなら、毎日仕事終わって疲れて帰ってきて、夜中まで書き続ける。それを3年 5年 10年、あるいはそれで一生終わっていいという覚悟がありますか?

 あなたがここに書いたことを脚本なり小説なりに、一ページでも書いてみたらどうですか。(ちなみに反対語問答は太宰の「人間失格」で印象的に書かれてますから、そのまま書いてしまっては、高校生から年寄りにまで月並み扱いされるでしょう)
 劇作家なんか目指していない堅気のサラリーマンですらあなたの表現に真新しさを感じざるを得ないような技巧を凝らす。読ませる・魅せる。技巧を磨くことこそが、ものづくりでしょう。

 ・・・ここまで読んだら、3分間目をつぶってみてください。目を開けて、腹をたてたり、ましてや死にたくなったり、そんな感情がちょっとでも浮かぶようなら、書くのを早い目に辞めたほうが
本当に良いと思います。それは敗北ではありません。


 死ぬまでに良い作品を書く。じゃなきゃ悔しくて死ねない。だからがんばる。
それ以外は、世代共通万国共通の「戯言」ですよ。
2008/04/14(月) 15:36:26 | URL | 私は毎日、本気で書いています #-[編集]
コメントをありがとうございます。
 コメントをありがとうございます。
 あなたの書かれたことは、冒頭から的を射ており、深く静かに私のなかに入ってきました。
 どこからなにを書いていけばいいか迷っていますが、非常に冷静に的確にこれだけのことを書いて下さったあなたに感謝をしつつ、誠実に返信を差し上げたいと思い、キーボードに向かっています。

 「大いなる助走」、恥ずかしながら未読ですので、本日、早速注文を致しました。明日には届くと思いますので、読もうと思います。そのうえで返信を差し上げようかとも思いましたが、それは私が自分の中に落とすことだと思いましたので、まずはなによりも、いただいたコメントに、深く感謝し、ここまで透徹した視点を持って発言して下さった見知らぬあなたを尊敬しつつ、今の私なりに、お返事を差し上げたいと思いました。

 「冒頭から的を射ている」、と書きましたが、確かにあなたのおっしゃるように、「劇作を辞めたいのではありませんか。ものづくりが、実は面倒くさくなってきたのではありませんか。」ということは、かなり当たっています。より正直に、正確に申し上げるのならば、「面倒くさい」というよりは、「疲れていた」の方が近く、そして「劇作を辞めたい」というよりは、「死んだらもう書かなくて済む」という方がより近い心情だったと思います。それはほんの少し前の私に覆い被さっていた濃いもやのようなものだったのですが、なんでしょうか、今考えても不思議ですが、「劇作を辞める」ではなく「死んだら書くことで苦しむ自分をなくせる」だったようです。「辞める」という選択肢もあったのですね…。
 そうした心情を抱えつつ、自己矛盾だとは思うのですが、一方で、あなたが、「いざ食えなくなったらそこまでしてでも書き続ける覚悟、あなたにありますか?」と問いかけられたとき、「私の場合、それは覚悟ではないわ…」と思えました。
 私はこう感じるのです。
 どんな時代、どんな場所に生まれてなにをしていても、私は物語を書いている、作っている。たとえ文字のないところに生まれたとしても、物語を作って人に聞かせているだろう、それは、物語を作らない篠原は篠原ではないのだ、というほど深く、私という人間、私という人格の中に刻まれている、と。これは不思議と、覚悟ではなく静かな確信なのです。
 ものごころがついたときには、もう弟や妹に、自分の作ったお話を即興で作って聞かせていました。シュヘラザードのように、ほとんど毎晩のように、忙しかった両親がそばについていなかった夜、店のシャッターの音が恐いと泣く弟をなだめ、気をそらせようとして次々に口から出任せのお話を作って聞かせていた子どもの頃から、物語はいつでも、「向こうから勝手にやってくるもの」でした。お話は「手が勝手に書いて」できあがるものでした。
 …不思議です。あなたに言っていただいたことで思い出し、自覚させさせられてしまいましたが、おそらく私の「覚悟」というものは、どうやら「書き続ける覚悟」ではないようです。覚悟をしなくても誰に頼まれることがなくともなにかしらの物語は必ずいつでも作っている、書いている、それが私自身なのだとすると、私の覚悟は、「いい作品を書く」という覚悟で、これが、辛かったのだ、と、あなたへの返信を書きながら、再認識させられました。
 勝手にやってきたり、手が勝手に書いたりする「お話」が、「しかしこれではよくない」と、囁く内外の声に葛藤しながら直し続けることや、直しながらなにがいい芝居なのかが見えなくなって混乱することや、圧倒的にうまかっらりすごかったりする他者の作品に無力感や劣等感に打ちのめされることや、書いても書いても自分の作品に自信が持てず自己卑下に陥ることや、そうしたことがないまぜになった結果が、悲鳴としての、あるいは甘えとしての、疲れた、であり、死にたい、であったのだと思い、その奥底にあるものが、「面白い芝居が書きたい」という、どうしようもなく飢えた、欲深い焦燥だったのだと自覚します。

 いずれにしましても、あなたのおっしゃるように、確かに、戯れ言を言っていないで、作品を書くしかありませんね。
 
 書きます。

 ありがとうございました。

 篠原久美子
2008/04/15(火) 11:32:28 | URL | 篠原 久美子 #-[編集]
大いなる助走
劇作家さん、上でコンメントされた方、真剣に生きていますね。
小生は別の意味で「大いなる助走」に救われた者です。若気の至りでモノ書きにあこがれた時期がありました。このとき「大いなる助走」を読んで、スパッと思いを断ち切りサラリーマン生活に専念し、何とか、一応名の通った企業の管理職に到達しました。そこに到るまでの間、歌舞伎や商業演劇、大衆演劇、ミュージカル、小劇場、学生演劇を観ては「ホン(台本)がだめだな」など、さも分かったような生意気なことを口にしていました。
また、どきどきモノを書きたいという欲求が出ましたが、その都度「大いなる助走」を読み返し踏みとどまりました。会社員生活は不本意な思いの連続ですが、社会的立場や経済的に恵まれ、インターネットのおかげで書きたい欲求はホームページに雑文を掲載することで解消し、均衡の保たれている状態です。
一方、私の友人で、生業に就かずバイトや親との同居でしのいで、何か書いていこうとした人もいます。経済的にはキツそうですが、会社に時間を拘束されず勉強出来る分見識も深く感心します。結果は出ない公算が高いのですが、葛藤の中生き方を貫くことも立派だと思います。
こうして並べてみると、前者の私は妥協の人で、後者の友人が信念に殉じた人、みたく映るかもしれませんが、前者にも会社員としての実績があり、一般的にはそれはそれで価値があるものとされています。
死ぬの生きるのと堂々巡りをするより、コメント氏の言われるとおり、迷わず「書く」か、もしくは「あきらめて普通に働く」のがよいと思います。よく読むと、すでにご自分で答えまで読み切っているように見受けられます。「あきらめて普通に働く」でも、ストレートに書けないような不条理体験や、バイト君のレベルでは遭遇しない『つらい経験』を蓄積することができますよ。
2008/08/08(金) 13:16:32 | URL | 江坂王将 #OARS9n6I[編集]
おじゃまします。
「藪の中から龍之介」昨夜(9月14日)、拝見しましたー。

こんなところに書き込んでしまって、ハリセンではったおされそうですが、わー、篠原サン叩かないでー。

素晴らしかったです。
3時間という長さは感じさせましたが(笑)、あれは必要な長さですよね。
無駄がなく、脚本は勿論のこと、美術、舞台装置、音楽。丁寧丁寧に創られた芝居だなあ、と思いました。
キャストも見事にはまっていました。

龍之介を青年が襲いに来た時、まあ、いろいろあって、龍之介が、幸子さんが来るなんて偶然だなあ、といった時、妻が、電報を打って呼ぶんです!!といったシーンでは、会場からどよめきが起こりました。スゴイーって。勿論ぼくも、ゾクゾクしました。

いくつか胸に刺さるセリフもあって、これは、現代劇なんだなあ、と思いながら観ていました。

龍之介は見事に「藪の中」。

観劇前に、龍之介のお墓を訪ねた甲斐がありました(笑)。
再演していただきたいです。
2008/09/15(月) 11:12:06 | URL | 齊藤 拓 #-[編集]
2008/04/14(月) 15:36:26のコメント主
篠原様、こんばんは。
本件、3年前にコメントしたものです。
その後体調はいかがでしょうか。

あるきっかけで、ふと、ここに書いた事を思い出したので3年ぶりにコメントしています。

大いなる助走は当時の貴方に一助たりえる書物でしたでしょうか?
ブンガク・アートで悩んでしまって自縄自縛に陥っている読み手がいたとしたら、「その悩みは傍から見たらどの程度のものか、を、托鉢坊主が冷水霧吹荒療治をもって気付かせる」・・・失礼ながらそんな効果があるのではと思ったのです。

実は、僭越至極な言い回しの文章だなと自覚しながら書きました。「ああ、このブログ書いている人、来週くらいに死ぬかもな」という類の予感が、貴方の行間からなにやらしたものですから、貴方のことは何も知らぬまま(東尋坊の夜周りではないですが)、一種の憤りめいたものに駆られ力づくの蛮筆で引きとめた次第です。的外れな個所はご容赦のほどを。

さて、
3年たつと、ほっといても周囲で色んな人が死にますね。ある人が津波で流されたことを先月知ってから、なんか、私ももう書くことが面倒になってきました。自粛ムードとか隣組的かしましさとかそういうちゃちなことからではなく、「この期に及んでブンガク云々・表現云々で死にたがる奴はこの社会からまともに相手にされない」。そういう、厳しい、身も蓋もない、しかし焼け跡闇市的に言えば健全な視点が、この世の中に芽生えていることを皮膚感覚で認識しています。

私は、益々粛々と社会的営みをエネルギッシュに行い、他方で私は益々凛凛と好き勝手なことを著してこのろくでもない社会をまるごとだきしめてやるのだ、と言い聞かせながら、日々生きています。

「自殺なんぞ、死んでも、するものか!」
2011/06/01(水) 04:31:07 | URL | 3年はあっという間ですね #-[編集]
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